ご挨拶

昨年、
”他者との共同生活が自分に何をもたらすか
それが悟達に近づくことになるのか
わからないが、精一杯やってみようと思う”
と書きましたが、家族を持つという重さがわかっていなかったようです
1年書き込まなかったのは
ここに書く気力を、同棲・結婚という目的に使いたかったからで
結婚式が終わって落ち着いたら、こちらに書き始めるつもりでした。
新しい経験を加えて、自分がより大きくなるかという期待がありました

平均寿命の半ばを越え、自分の人生をまとめ始めるつもりで
ここへ書き込んでいました
残日録というネーミングはその為でした
ですが・・・

先に書いた人生の目標の為に集めていた資料、蔵書を全て捨てることにしました
おそらく青年時の夢はあきらめるしかないでしょう
残りの人生のなかで、新しい夢ができたら
若しくは、ここに来る気力が萎えてしまったら
もう一度エントリーさせていただきます
それまでは、また失礼させていただきます

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井筒氏ってどういう人だ?

ANAのCMで女性にむかってしきりに「魔都上海」を繰り返す井筒氏
云わせるほうもおかしいが、云う井筒氏の神経を疑う

かって私は「文明の闇」をエントリーしたが
都市というものは、その文明の闇が凝縮した結晶だと思う。
19世紀末から20世紀初頭における上海は、
西洋文明と中国文明の2つが共存した、まさに文明の結晶であった
幕末の日本人が、ああはなりたくないとした反面教師
租界の中で、東洋最高の生活をする人々と
流入民、それを統括する首領たち
幾つもの階層が東洋一の光と闇を作る、それが魔都上海

江沢民たちは、改革開放政策の下に、
上海閥から、共産党員、市民権をもつもの、市民権を持たずに出稼ぎにくるもの
新たな階層をつくり、
清朝時代のような東洋一の繁栄を取り戻した
現代の上海は、まさに「魔都」だと思う

だが、「パッチギ」を作った人間が、それをうれしそうに叫んでいいのか
関西人なんだし、闇が見えぬわけがないだろうに
私には理解できない

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43の誕生日を越えて

10代の終わり、諸行無常の境地を解した後
清談を遊ぶのみでは机上の空論に終わると
60歳での悟達を目標に、
四門出遊のつもりで獣医学科の大学に進み
臨床の仕事につくことで、考えていた以上のものをみた
短命な動物のものだけでなく、彼らと関わりをもつ人間をも
生命の不思議としか云えないこともみた
不勉強な牧師のせいで、人のカウンセリングも試みたことがある
直接の指導は法的・責任上の問題があり
話を聞くことで気持ちを和らげ、カウンセラーの存在を教えたくらいだが

人生を半ば過ぎてより、観察者としてだけではない生き方ができるようになり
今年になり、全く新しい生活をするようになる

他者との共同生活が自分に何をもたらすか
それが悟達に近づくことになるのか
わからないが、精一杯やってみようと思う

すみませんが、このブログの更新がますます遅くなります
ご容赦

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門灯

原付を修理に出している間、30分以上の徒歩と電車、バスと乗り継いで通勤していた。
仕事を終えて駅から家に歩いていると、街灯のある広い路は明るいが、少し狭い路に入ると真っ暗だということを知る。
小学校の横も通る。朝は小学生で溢れていた。
OLも女子高生も通る。
果たしてこの路で、犯罪防止や救難、犯罪者目撃は可能なんだろうか。
住宅地である。路の左右は人家なのだ。
大声を出せば助け手は現れるかもしれない。しかし、とっさの恐怖にその大声を出せる余裕があるとは思えない。
人家の扉が数歩さきにあるというというのに安心感が生まれない。
それどころか人家が暗闇を作り出す。

和歌山にいた頃には、ほとんどの家やアパートには門灯・玄関灯があった。
それはおそらく夜の訪問者や緊急電報に備えてのことだっただろうが、同時に夜道を照らす町内の共同体意識もあると思う。
そこに家がある、知り合いがいるという安心感があった。
夕刻になると部屋よりも真っ先に門灯に電気をつけることは子供の頃の習慣として親に教えられた。
定年ゴジラ」に、通勤がなくなって玄関灯が切れていることに気づかないという話があったから、その頃まではまだ習慣としてあったのだろう。


20年たった茨木のこの路では、お店は、それでも明かりのついたものが多いが、民家・アパートは10件に1件ないだろう。
帰宅の遅い一人暮らしならまだしも、主婦や子供のいそうな一軒家、戦前から建ってそうな農家造りの家ですらだ。
街灯が増えてゆくなかで、門灯・玄関灯が消えてゆく。人々の意識の変化をみるおもいがした。
公共というのは役所や警察、学校だけのことだろうか。
自分たちが周囲に背を向けながら、誰か担当者を捜してなんとかしろという。
監視カメラを付け、セキュリティサービスと契約して。それで全てをカバーできるというのだろうか。

瀬戸さんの問いかけに直接答えることはまだしばらくできそうにないが
少し関連付けての話題を提供できたであろうか

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殺すってのはやなもんですぜ

standpoint1989さんの「たゆたえど沈まず」で人を殺すということについて書かれていた。見事だと思う。他にも総さんなど議論があるようだ。
私自身の意見はかって「コロセアムの上と下」で書いたことでいいと思う。
自らすすんでであろうが、しかたなくであろうが、死んだものの生命を背負うことにかわりはあるまい。
また、他の人のblogに書いたコメントもあげておく。イラクについて書いたことなので、少しずれるが、ご容赦いただきたい。
「私はレジスタンスでもテロリストでも殺人者になることを否定はしませんが、なった人間は普通の人と区別します。理由の如何を問いません、目的方法は違えども医師看護士も含めます。一線を越えてしまった人は死に対する感覚が違ってしまいます。冷酷なようですが、一生消えないでしょうね。抵抗できずに死ぬのとどちらが幸せかは一考の余地ありです。戦争は直接的な殺人や破壊だけでなく、その様な殺人者を今後増やすような行為として反対します。」

被害者はまだ意識不明ということだが、加害者のためにも助かることを祈る。

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帰省

実家に帰ると、弟が2chのハン板を読んでいた。
ただ、彼は私と違って素直に笑うだけで、
ハン板の基礎教養といえるじじ様剣道の起源は韓国にありも知らなかった。
同郷のユウコの憂国資料室も知らなくて、もしかして只の2ch中毒患者なのかと心配になる。
もしこのHPをみたなら、上の3つに加えて電脳補完録くらいはおさえてほしい。
余裕ができたら左のリンクにある「てつ」さんや京都のかこさん、愛・蔵太の気ままな日記などに目を配ると同時に
半月城通信ハンワールド、趙博氏のHPなどで違う意見も知ってほしい。
その上で、2chのにも笑いはあるのだとわかれば、2chからの離脱が容易になるだろう。
情報に惑わされないで、情報を遊ぶ。2chという遊び場をうまく使いこなすということを憶えてほしい。

しかし、ハン板がどういう場所かだとか、真面目な韓国情報は別の場所にあるということすら私に云われるまで気づかなかった純朴な弟にそこまで可能だろうか?ちと不安

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訃報

ストリップファンの掲示板と、購読しているとあるメルマガで縄師明智伝鬼氏の訃報を知る。
彼のHP”NAWASHI”で確認。
64歳とはまだ若い。
伊藤晴雨氏78歳。
長田英吉氏75歳。
濡木痴夢男氏74-5歳たぶんまだご存命のはず。
伝説の緊縛師達のようにまだ10年は活躍してほしかった。
名古屋に来ていたことはしっていたのになぁ。一度お会いしたかった。
早乙女宏美さんはこのことをご存知だったんだろうか。

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無邪気な年頃

職場に小学生が社会見学に来た。
上司が「あの頃が無邪気で一番いいよ」というのを聞いて、自分の小学時代を思い出した。
あの子たちと同じ小学3-4年の頃はたしかアパートの自分ちから前のコンクリートに飛び落ちることをよく考えていた。
2階からじゃあよっぽど運がよくなきゃ死ねないと思うが、そんなことが理解できる歳ではなかった。

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銀のパンプス

私が北海道で学生をしていた頃と云うと、2昔近くなるか。
その頃の踊り子さん達は、衣装・踊りは様々であっても、まるで規定であるかの如くに剥げた銀のハイヒールをしていた。日舞は裸足か足袋だが、それでもオープンショーになると同じであった。例外はめったにいなかった。

卒業後は足が遠のいていたのを昨秋よりまた小屋に通い始めたが、銀や他のメタリックな色のハイヒールを履いた踊り子さんのほうこそめったに見かけない。皆さんスニーカーやブーツ、裸足、ローラーシューズなど形も色も実にバライティに富む。
逆に街の靴屋さんにはメタリックな色のパンプスが普通に置いてあり、出勤時に、銀のパンプスでコナミスポーツセンターに入るOLらしき女性をみたこともある。

花柳界と素人の流行のこういう逆転現象はよくあることなのだろうか。時の移り変わりの見事さを感じながら、浦島状態の新鮮な驚きを楽しんでストリップ小屋に通っている。

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帰省

一年ぶりに帰省した。名古屋と違って無理なく日帰りできるのが有り難い。
桐蔭高校で国語を教わり、創作部(文芸部)の顧問として指導いただいた田村南�告謳カは、本をだしたり南画をものにされていた方であったが、先生の遺作展にゆくのが今回の目的であった。
連絡をくれた同窓生は別の日にお伺いしたようで、今回は会えなかったが、先生が極楽で手配されたか、別の2人に偶然出くわせて、待ち合わせた友人と4人のプチ同窓会になった。
文芸部員といっても、それまで何も書いたことが無く、高校時代は原稿用紙5枚ほどの短編すら書けなかった。桐蔭文芸本誌の1/4くらいを広告で埋めて、もう一冊部誌をだせる黒字をだしたくらいが実績であろうか。
部誌をだすにあたり、原稿用紙1枚くらいのものしか書けなくて、それまで書いたものを全部先生にみせたところ、昨年話題の朔太郎の名前の由来である、萩原朔太郎を教えていただいた。
幾つかのテーマを持って単文を連ねてゆくという方法は、その時以来で、このblogも実は日記というより数冊分の素案の寄せ集めのつもりでもある。

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