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音楽の質問に答えて次の5人にバトンを渡す

くまりんさんからWEB版ねずみ講のお誘いが来た。こういう選択は趣味がばれるだけでなく、思想の深さ、ユーモアと交遊の広さが問われる。さて困った。
悪趣味の披露を世代論に絡めてみる。音楽はこれといった趣味はなく、中古CDショップでふと目に留まるジャケットを買う。いいかげんの割には結構いいものにあたる。それで気に入った人を集める。そうしてコレクションが増えた。ここには挙げていないが、ベット・ミドラーのローズなど、輸入版を映画のサントラと思わずに買った。彼女の出ている映画のビデオを借りたり、彼女やジャニスのCDを聴いたのはそれからであった。前のHPのプロフィールに好きな歌手をアマリア・ロドリゲスと書いたが、彼女も新星堂の店頭で適当に買った1枚からである。素敵な出会いを求めてというとちょいと気障かな。先の人に比べるとずいぶんレベルの下がった選択で申し訳ないが、次の人にもう一度持ち上げてもらおう。

1.PCに入っている音楽ファイルの容量
サンプルとしてソフトに元々あったもの以外入っていないです。窓95の入ったPCを初めて買ったときCDから数曲入れたこともありましたが、CDをそのまま聴けばいいのでやめました。携帯には目覚まし用に数曲入れています。

2.今聴いている曲
デリケートに好きして:太田貴子
PCではなくて携帯の着メロ。若かりし頃にはまったアニメの主題歌です。
世界に拡がったOTAKU文化は千と千尋ではなく、UFOロボグレンダイザーやAKIRA、うる星やつら、甲殻機動隊ポケモンセーラームーンで語られると思いますが、日本におけるおたく文化はうる星やつらから幻夢戦記レダ、ミンキーモモ、クリーミーマミという流れで一般社会に拡がったと思います。大人による大人の為のアニメーションの試みは虫プロのアニメラマ、清順組が参加したルパン三世や恩地監督の地球へなど幾つもありましたが、単品で評判になっても類似品が続かない。今回はCDの話なので、これ以上は後日べつの形でエントリーします。オタキング岡田さんの様な開拓世代ではないですが、おたくが異様な集団から一般化してゆく時代を観てきたということでこの曲を挙げます。

3.一番最近買ったCD
井上喜久子のまんぼう放送局
果たしてここに挙げるものかどうか迷いましたが、即興っぽい唄は入っているから音楽CDとしてもいいでしょう。これはHP@manbowをみて彼女のことが気になっていたのでネットオークションで落札しました。DVD”帰ってきたお姉ちゃんといっしょ”も無邪気な笑いに満ちていていい。私の世代の特徴としてアニメ関係から2つ挙げました。

4.よく聞く、または自分にとって大きな意味のある5曲
昭和円舞曲 鈴木一平
3rdLP”北駅”からの1曲。”ひとり唄”とともにカセットテープをオートリバースにして下宿で酒を呑みながら眠るのに最適な唄でした。鈴木一平、村下孝蔵、中島みゆき、BORO、REBECCAなどが大学時代の思い出です。平成ももう17年、昭和を知らない世代が社会に出てきます。昭和枯れすすきと昭和円舞曲、昭和食堂昭和村、昭和という時代がノスタルジックに語られる時代になったということでもう一度聴きたい唄です。

・裸樹 堀内孝雄
この曲を知る世代はすごく狭いと思います。演歌でもなくニューミュージックにしてもちょっと違う、今の堀内孝雄さんとアリスのべーやんを繋ぐ曲ですが、いい曲だと思うのですがねぇ、CDを捜すのに苦労しました。高校時代この曲でスリーフィンガー奏法を練習しました。

雨に描いたリグレット 彩恵津子
英字題がHis Regret私でも貴方でもなく、三人称で恋人を呼ぶ。その微妙な距離がうまいなぁと思います。これも適当に買ってはまった曲です。彼女は後年ガンダムシリーズの主題歌を歌っていまして驚きました。

・TANDEM ヴァネッサ・パラディ
素直にゲインズブールを挙げないところが隅田らしいでしょ。いえいえBBやジェイン・バーキンを擁して一時代を築いたのは私が生まれる辺り、私の青春時代と重なるのはバネッサでしょう。でも彼女ももうフレンチロリータじゃないですね。

・カントリーガール 谷山浩子
彼女がオールナイトニッポンのDJをしたのは深夜ラジオが若者に特別な意味を持っていた時代のしっぽでしょうか、当時の彼女には紀勢本線を舞台にした”テングサの歌”という曲もありますが、ここは私がYMOと共に初めて買ったレコード曲を挙げます。ちなみに番組は近年CD付き食玩として発売されましたが、初期・全盛期中心で浩子さんは入っていませんでした。

と、こんなところで如何でしょうか。

5番目のTB先は公開しないでおく。blogには何でもありの日記や雑記もあるが、サッカーや着物といったテーマを絞ってエントリーしている処も多い。特に知己の少ない私が5人も選ぶとなると音楽の話が場違いなblogに無理にTBせざるをえない。いちいちメールで確認をとってからTBするのも何のためのTBかという話になるので、TB返しがあれば了承のしるし、TB返しが無く、むこうでTB記録を抹消すればそのblogにふさわしい話題ではなかったという印とさせていただく。
悪意はないにせよ一種チェーンメイルみたいなものだから、隅田らしくもなくちょっと弱気になる。

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同業者のblogがでた

blogに新しいエントリーを書こうとして、同業者の須崎先生がblogをだしたというnewsを知る。
私自身は、手作り食を積極的には勧めていない。
そのこにあったフードがあればそれでいいと思いますが、その選択肢として、手作りもあるということで、最近いろいろいい本が出てますよ、図書館で捜してくださいと伝えている。
栄養標準やレシピをみながら、メニューを工夫して毎日食事を作る労力は、絶対しなさいと獣医師が無責任に云えるほど軽くはない。手抜きかもしれないが、安心できるフードがあればそれでいいと思う。
自分一人の食事も、完全な手作りではなく、買ってきた弁当や総菜、冷凍食品に少し手を加えることで済ませる日々である。他人にどの面さげて云えよう。
だから、須崎先生のドライフード販売はすばらしいことだと思うし、その様な柔軟な姿勢に好感を持つ。
さっそくお気に入りに登録した

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三國連太郎・沖浦和光対談集「芸能と差別」の深層(人非人より4)

パソコンが壊れて、このblogに用意した下原稿や余所で書いた過去の原稿が全て消えてしまって途方に暮れていたが、書店で見つけた本から人非人シリーズにいいネタをもらった。三國連太郎・沖浦和光著「芸能と差別」の深層(ちくま文庫)2005.5.10.発行を読む。

彼の云うところの「非情さ」の基本は職務に対して誠実であろうとする職業倫理であろう。
三国氏は云う。”仮に一人の解剖医を私が演じるとします。そうするとまず、解剖医の日常性から生まれる生理みたいなものをまず実感として拾得していきます。本を読んだり、現場を見たりして......。無感動に鋸とデバで人間を捌ける非情さは一体どこから生まれるのか、そこのところをトコトン考えます。(中略)ポリバケツの中に心臓を投げ捨て、軽い手さばきで腎臓を取り出していく−そのような老練な解剖医の日常感覚的な、形ではなく、内面の複雑な心理の動きを表現することを忘れてしまうと、薄っぺらなものになってしまう。”

彼が解剖医という職業を根本的に理解していないのは「投げ捨てる」「軽い手さばき」などという言葉にでている。薄っぺらい自惚れしかない。
仕事の成果を投げ捨てる馬鹿がどこの世界にいるか。そんなやっつけ仕事を老練と呼ぶか、普通?
「メスや鋏で手際よく正確に取り出し、バケツに入れる」だと私は思うが。如何なものであろう。
「非情」や後述する「無感動」は私情や遊びで仕事をしていないとすべきである。
以前、獣医師は動物好きにちがいないという飼主の誤解についてふれた。好き嫌いという感情で診察をしては獣医師失格である。この例も同じであろう。

ここに来られた方に、一つ似たような命題を出そう。
獄吏が拷問係として、職務に忠実に、職業倫理として誠実であろうとしたときに、目の前の人間が発する苦痛のうめき声にどう考えるであろうか?
耳を塞ぐという選択は冗談にもならない。耳を塞ぐくらいなら辞職すべきである。
悦ぶ。それは職業上の意味があるか。私情ではないか。
答えは友成純一氏が「新人獣裁判」(大陸書房)で書いていた。私は雑誌連載のときにみたきりだから、正確に書くことは出来ない、答えは図書館や古本屋で捜していただきたい。奇書はすぐに絶版になるので困るが、作家というのは作品のリアルさの為にここまで想像することができるといういい例だと思う。
私の考えは書かないでおこう、安易に書いては皆様の想像をじゃまするだけだ。気持ち悪いだろうが、一度本気で想像していただきたい。

と、ここまではベースとなる倫理について書いた。次にその先にあるものを書く。
「鬼手仏心」という医学用語をこのblogによく書いているが、常人には出来ないことをする職業、修羅や鬼にならねばならぬ職業には共通すると思う。手は正確に切り刻みながら、慈愛を持ってその人の人生の最後に関わってゆく。解剖医によってその人の人生が確かなものとして完結する。解剖医のプライドは那辺に在るのだろう?死者に対する職業上の愛はどの様に表現されるか?言葉として、手つきとして、それを知るのが役者であろう。
三国氏は書く。”ただし、外側からは無感動に見えながらも、生理的には何らかのショックがあるのかもしれません。解剖医として当然生まれるであろう心の内部の複雑なシチュエーション(中略)その微妙な感情の流れも必要であれば表現しなければなりませんね。”
「ショック」ねぇ。書き写しながら自分の心が冷えてゆくのを感じる。七十有余年を生きてこれかい。常人ならぬ辛酸を舐めてきたとおっしゃる経験が。役者を四十年以上(拙の人生より長いぜ)やって、役柄の理解力自慢がこれかよ。
もちろん、解剖医も人であり、教室以外の社会生活を送っている。個人的に死体の人と関わりや思いがあり、職業を離れた感情をもつこともあるだろう、ドラマはそうしたところに作られる。
が、役柄をつかまえる為の「日常」にそんなものがあったら大変だ。自分の家族が亡くなって悲しみをこらえてるときに、解剖医がショックで切り損なったので解剖は失敗ですって云われたら、どうします?切り損なわなくとも、動揺して診断を間違えましたと後日云われたら?

死骸を切り刻むことを非情だとか無感動だとか呼んで自分と距離をおこうとする嫌悪感は、その職務にない人間として自然な感情だとは云える。この様な突っ込みは無理無体だと思われるかもしれない。ただ、三国氏はリアルな演技をする例としてわざわざ解剖医をあげたのだし、別の場所に書いてあること、この本の趣旨・出版の目的とも矛盾するだろう。そんなつもりは無かったという言葉では済まない、きちんと批判されるべき文章だと思う。人非人シリーズは、人の情として良識ある人には書けないことを隅田という人でなしが書くシリーズであるとしてご容赦いただこう。

PS.
先の命題だが、ヒントとして、私の考える道筋としては、目的を達する為に、強すぎず弱すぎず正しく行われているかどうかの確認を五感を駆使しておこなうことが職業に誠実であろうという処から始め、慈悲の心をもって行うとすればどう工夫するかと進めると書いておく。
さて、皆様は?

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