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時間を感じる

歴史を考える時に、時間の連続と変化を感じるかどうかというのは、生まれつき持って生まれたセンスのようなものだと考えるしかないことがよくある。
くまりんさんの「日本人という意識」やstandpoint1989 さんの「朱子学的闘争に飲み込まれた韓国」における噛み合わないコメントは、時間感覚がないことにコメントを入れた人間が気がつかずにいることが大きいように思う。
時間感覚とは何なのか。ただ定義などいってもわからないだろう。私なりの喩えによって感じていただけるであろうか。問答になってしまうが、ご容赦。
時間感覚の例としては鴨長明の「ゆくかわのながれはたえずして・・・」と仏教用語の諸行無常があげられる。
諸行無常は仏教説話にあり、岩波文庫や、「ジャータカ物語」などが正しいだろうが
私なりの解釈は「豆腐」である
豆腐は水につけたままでは崩れてゆく。皿にだせば水がしみでて硬くなる。
ある日、会心のうまい豆腐が作れたとしても、翌日には確実に味が悪くなる。
翌日失敗作しか作れなければ、それでも会心作のほうが味がいいかもしれない。
では2日目は。7日目は。いかに会心作といえども日を追う毎に味はおちてゆく、崩れてゆく。(豆腐ようというオチは置いといてね。)
日本人という意識も、日本人の範囲が大きくなるにつれ変化してゆく。
当初日本を名乗った人々は、しかし日本人とは名乗らない。現在云う大和朝廷の国名としては日本でも、住む人はそれぞれの氏族、部族、部の民である。日本という言葉は官僚用語とでも云えばいいか。近いものに倭人という言葉があるが、倭人は、日本人とは字が違う。私は倭人は当時の日本という国より広い範囲の人々を指す言葉だと思っているが、例え同じだとしても、大和朝廷を中心に人々が集まるという意識とは別のものである。いってみれば、自らを倭人と考える人々の中から日本人という意識をもつ人が生まれてきたのはいつの時代で、その原因と転機は何かということだ。
日本国や日本人という言葉を、庶民が使い始めた当時の日本には北海道や青森は入っていない。更に境界近く俘囚と呼ばれた人々は日本の領土に住むが、彼らに日本人という意識があったかは不明である。
室町時代、南部氏が現代の岩手・青森に国を作ったときはどうだろう。津軽氏は日本人だと思うから、秀吉に積極的に取り入って津軽藩をつくったのだろう。
そうしたあいまいさと変化を理解できないから、国境が確定(今もって無人島の帰属争いが存在するというのに)し、国民意識ができないと日本人という意識はありえないから近代以前にはないと断言する。
「朱子学的闘争に飲み込まれた韓国」では、高麗・李朝における党派闘争を背景に親日法を論じているが、コメントは現在の状況のみを云い立てる。北朝鮮では親日家が粛清されたというが、どの様な人々かは宮崎学氏が書いている。韓国に於ける親日家についても彼は具体的には誰も想像できない。反日でもなく親日でもないその日暮らしの庶民の存在も想像していないが、親日家金素雲氏(彼は民族運動の王道である文芸活動を行った)が、終戦直後に避難民に嫌がらせをするにわか反日活動家をぶん殴った話を読んだことがあるので、親日・反日の2分論は韓国では当然の処世術なのかもしれない。

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NIN×NIN

盲目の娘の映画を三連続でみるとは思わなかった。
田中麗奈さんの美しさに見惚れていた。
いい役者さんだねぇ。細やかな盲目の表情表現は章子怡と対照的。
役者はよくぞここまでという曲者揃い。前もって何も調べておかなかったので、意外性を楽しめた。

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常任理事国

まず云っておくが、私も日本の国連常任理事国入りには反対である。
だが、反対する人々、国々の反対理由にも不快感を憶える。
理由は「殿下さま沸騰の日々」が簡潔にまとめてくださっている。
中共は歴史的事業として大唐帝国や元帝国の最大領土を越えるべく日々邁進している国である。
大きすぎる軍隊と諜報機関の士気のレベルを維持し統制をとるには、上に立つ人が常に目的と実際行動を与え続けなければいけないという、大国に共通の課題を果たしているだけかもしれないが
積極的にしろ消極的にしろ現在も領土を拡張し、近隣国の反政府軍に援助していることは事実である
他の理事国をみても御同様
常任理事国の資格としては反対理由どころか、アジア侵略は理事国にふさわしい実績といえる。

私が反対する理由は2つ
理事国になったうえで何をしたいかがはっきりしない
理事国として送り込むスタッフがいない
緒方貞子氏クラスの、他国の外交官達に尊敬され、従わせることができる外交官を定期的に送り込むことができない現状で、何ができるのだろう
国際連盟の頃の日本とは違うことを痛感する

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ばかもの

私は、私を含めて世の中の人の99%は馬鹿で、天才は1%以下だと思っている。
視点の違い、結論までの鮮やかさ。凡人にはついてゆけない部分もあるが、その人独自の新しい言葉や既存の言葉に対する新しい定義。
そして、それを大衆にむけてわかりやすく(若しくはわかった気になりやすく)説明してのける技術。
頭がいいとはそこまでできてはじめて云えることだろうと思う。
東大京大を出てる、一流誌で論文を出しているといっても他人より少しパズルがうまいだけ、99%は頭の悪い人間だと思う。
例えば天下の朝日新聞で社説・コラムを書いている連中も、一流大学を出て順調に出世し、退職後はどこかの大学の教授に天下る予定の人達だが、書いている文章のつながりの悪さ、過去の記事を忘れる記憶力の悪さ、引用の元を確認する手間を惜しむ横着さ、目の前に気をとられて時間の流れを読めず、将来への方向性を指示できない視野の狭さ。「2ちゃんねる」その他でさんざん叩かれる程度のレベルでしかない。
人気blogのなかにも先に私が空虚と書いた人やこんなもいるが、自分で思っているほど頭がいいとはみえない。
別に、天才のなかには唯我独尊で己が道を突き進む仙人もいるが、それも高みに到達できるのは極少数。

但し、世の中を動かしているのはその99%の馬鹿である。目の前の出来事に右往左往し、ベストの方向とは違う変な方向に突っ走る。
馬鹿共が、それぞれに勝手な方向にむかってゆく総体として、一つの流れになるのが、歴史の流れだと思う。
天才たちがどんなに正しい道を指し示しても、世の中を動かそうとしてもうまくはゆかない。
天才たちが、先が見えすぎてすぐに悲観的になったり、だから愚衆はだめだと莫迦にするのも放り投げるのは誤り。結論を簡単にだすものじゃない。
うまくゆかないのが当然だというところから出発して、よりよい道を模索し、努力するのが正しい評論のありかただと思う。
右傾化しているだとか、コイズミ人の「アホ・マヌケ」だとか(kamakazu氏のことではありません。直接のコメントや空楽さん、私へのコメントをみると後述する竹山氏と同様に尊敬できる人だと思っています)、ブサヨだとかいっただけで、結論にしてしまうのは論外
竹山徹朗氏を、意見には異論があっても評価して気になる人にリンクしたのは、天才だからではなく、彼の他人の意見に耳を傾け、そこから考え、更に進もうという姿勢が好きで、私もかくありたいと思うからだ。


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おやぢ心と秋の空

今朝の「ウォッチ」で、城戸真亜子さんが降板すると知る。明日からはアヤパンにしよう。
新しい歴史教科書をつくる会」の理事に工藤美代子さんが就任した。この会とは距離を置きたかったのだが、普通会員6000円に入ろうか悩む。
デビルマン」は久しぶりの阿木耀子さんの作品なので絶対観にゆこう。

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愛を知らなければ

ここは本来はお莫迦なHPの一つですが、面白い投稿を載せていました。
kamakazu氏は私より1歳上なので、宮崎学氏のような闘争世代ではないですが、そのしっぽの様なものに触れた経験があるようです。
彼の書くコイズミ人はインターネットの普及により生まれたのではなく、私の世代すなわち彼と同世代にもかなりいました。三無世代だとか五無世代とか、もっと増えて○無世代と云われた無気力世代ですから。偶然、彼の周囲には私達の様な虚無を身につけた人がいなかったんでしょうね。
インターネットの普及は、たしかにコミュニケーションのとれない人間も生み出してはいますが、オフ会・集会をおこないどんどん新しい交遊を作る人間も生み出しています。私はその中にも管理者kaziti氏のいうコイズミ人は多いように思いますが、kamakazu氏はみたことがないのでしょう。
HP管理者の創作した「コイズミ人」はコイズミ人度チェックというお題で既に書かれているので、
kamakazu氏はコイズミ人を再定義するのではなく、このような人々がいて、管理者のコイズミ人と重なることが多いと思う、とするか、新しい言葉でそのような人々を定義すればよかったと思います。

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朝貢

江沢民が軍を手放して政権交代が本格的になったとたんに朝貢したのがのんびり屋さんが評価し、勝谷氏は売国奴と呼ぶ河野洋平だというのが可笑しい。
政権交代時に周辺国家から使者が挨拶に来るのはよくあることで、この時期に河野、さらには媚中代表田中真紀子が唯一親しい小沢一郎と次々訪中するのは朝貢にしかみえない
江沢民べったりだったのを軌道修正するためにあわてて参内したなら更に情けないが、私には真相はわからない。

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十面埋伏

前日に「ヴィレッジ」を観たのが大失敗。
同じ盲目の娘が主人公。理解の深さと演技力の確かさ。かたや舞踏の癖ですぐに無表情になる欠点、演技力のなさをカバーするためじゃないかと思える無理な設定。
論理的に組み立てられたストーリーや世界背景に、脇を固める名優達。かたや絵的な美しさを最優先にしてストーリーや背景となる世界はばらばら。個々のキャラクターの深みもない、尤も4人の役者にその他多数の素人では無理な話だが。
遊郭の場面以後、筋書きだとか演技だとかは捨てて、ひたすらワダエミ氏の衣装や風景の美しさを追って観た。
先にloversというお題で書きはしたが、ここまでそのとおりの観方しかできないとは思わなかった。


名優劉徳華は衣装が少なくて、それもそっけない武官の制服中心だったので可哀想だ。
金城武は、舞踏経験がないのだろう。
舞踏家は、よく能面のようなと云われる、動きや決めのポーズにより感情を表現するために、よけいな顔の表情を消す、”無”の表情をする。章子怡が大根役者なのは激しい表情とこの無表情をいったりきたりして、細やかな感情表現が出来ないからだが、他の役者がアクション時に無ができるのに、金城武ひとりは常に表情がでていた。
唯一人飛刀門ではない彼の役柄を際立たせる効果もあるが、全体の雰囲気がちぐはぐな印象になる。
娯楽映画として作られ、典型的な場面、典型的な演技・表現で、芝居がかった進行をしている映画なので、また他の役者、劉徳華も宋丹丹も感情を押し殺した役どころであり、金城武の細やかな感情表現は異質であった。
章子怡は踊ってれば充分。

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スポーツ幻想

戦争ではなくスポーツ

桃井和馬氏はとてもするどい目を持ったフォトジャーナリストだが、スポーツは素人だということを露呈した。
反戦に主眼があり、オリンピックはイヤミとして引き合いに出しただけのものだとはいえ
プロの、しかもベテランジャーナリストが簡単な下調べもなしに書くものじゃない。
競技の種類、選手の体質によるが、競技にでるものは各大会の日に合わせて年単位、月単位のタイムスケジュールを組んで準備をする。365日開催というのは、本当に人が死んでしまうことを意味する。
また、「厳しく適用されるスポーツ・ルール」が、およそ4年周期で細かく変更され続けていることもご存じない。オリンピック直前こそおとなしくなるが、終了直後から各国より問題点の提議が噴出し、2年くらいで新ルールが提案され、賛成多数で採択される。終わってみると前回活躍した特定の選手に露骨に不利であったりする。
スポーツマンシップは、正々堂々の儒教倫理からほど遠く、ルール違反すれすれのところで勝つために全力をつくすことだが
全員同じ条件であるところに倫理があり、条件そのものを特定選手に有利に運ぶことに倫理的抵抗はない。
「崇高な精神が流れているオリンピック」などというようでは、その裏の戦争に気がついていない。

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莫迦っ話

スウィングガールズを観た。
ご都合主義とも云えないぶっ飛んだストーリー、学芸会並の演技、学芸会並の演奏、
欠点・難点をあげればきりがないが
そんなものどうでもよくて、只々莫迦笑いしていた。
そして、出演者の学芸会並の熱意に感動。
いい映画です。
kossyさんの映画評も泣かせます。

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名古屋銀映

劇場によき常連客がいて、踊り子にタチのいい追っかけがいて、一般客をうまく導いて舞台を盛り上げる。
入場料だけではやってゆけないのでポラはあるが、踊りの時間をきちりとって、別枠で用意している。
こんないい劇場だとは知らなかった。またゆこうと思う。
五木麗奈さんは別格の踊り。一幕目は芦原と同じ日舞。二幕目はビール片手に踊りが違った。リズミカルな踊りの方が得意なのだろう。新人らしき女性組3人が見学していた。
東条美月嬢もいい感じ。このまま踊りに精進して欲しい。
南関東を中心に廻る人は客の厳しい目に鍛えられて踊りのレベルが高いが、関西やドサ廻り中心の人は客あしらいがうまくても踊りの甘い人が多いというのが20年前の話だったが、今も同じか。

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売笑

いやな記事をみた。
朝鮮新報「慰安婦発言で物議」 李栄薫教授がナヌムの家を謝罪訪問

「東豆川(トンドゥチョン)で体を売っている女性と私たちを比較するなんて、あり得ないこと」(イ・オックムさん)

右に「これでは困る韓国―ニューカマー韓国人の対話」の書評として載せてある文、読みにくければ題をクリックしてamazon.co.jpにいってみて欲しい。
同じ国の話だということが哀しい。しかも潔癖な若い世代ならまだしも、発言者は戦争体験世代だという。
記者の捏造であることを願うが、もし本当に云ったとしたら、彼女は今も売笑を続けているということだろう。
体ではなく言葉でもって、一人一人の男に対してではなく世間に対し。

ちなみに、従軍慰安婦問題については先の書評と
旧宅から、2文を転載して、私の見解とします。

哀しい文章
at 2003 09/10 23:28 編集

従軍慰安婦について書かれた人権擁護派の文章です

http://www.jca.apc.org/JWRC/exhibit/Index-j.HTM

”「従軍慰安婦」とは、戦地で命の危険にさらされながら、強権による性暴力の 犠牲となった女性のことです。

日本は、1930年代初めから軍隊のための「慰安所」を戦地に作っていました。 「従軍慰安婦」は、1937年の南京大虐殺直後から本格的に制度化され、戦争の拡 大につれて増加していきました。

8万人とも20万人ともいわれる「慰安婦」の多くを占めたのが、植民地朝鮮の10 代後半〜20歳代の若い女性でした。だまされたり、強制的に連行された彼女たち は、中国大陸はじめ東南アジア各地の前線に送られ、過酷な奴隷生活を強いられ ました。日本の敗戦時には、異郷に置き去りにされた女性も少なくありませんで した。

事態を複雑にする要因は、もう一つ、女性の出身が、交戦国であるか、植民地であるか、日本(内地)人であるかによって扱い方がまったく異なったことである。被害者が交戦国の場合、水商売経験者以外は、銃剣を突き付けて連行するなど強姦・拷問の延長という形が多く、現地の奴隷売買の慣行を利用する場合もあった。植民地では、現地の統治機構を使った強制をはじめ、だまし・前借金など、旧来の植民地における人権保護レベルの低い公娼制度下で使われた人身売買の手口(例えば前借金で縛る)などが、そのまま利用される場合が多かった。
日本人の場合、多くが水商売経験者で、旧来の公娼制度の水準がある程度守られた。現地では将校付きとされる場合が多く、過酷さも少なかったが、交戦国・植民地の女性と一緒の下級兵士用の慰安所に入れられる場合は、その過酷さによって心身とも深く傷付けられている。”

水商売経験者に対する差別意識に満ちた文章だと思いませんか
水商売経験者の日本人は慰安婦扱いされてないですよね。一片の同情の言葉もない。彼女たちは別世界の極楽浄土にでも住んで、遊び暮らしていたのでしょうか。(娼婦の別名に遊び女、浮かれ女ってのもありますが)
からゆきさんや、当時の公娼の伝記(例えば阿部定などは何冊もでています)を読んでみて下さい。特別扱いされたのでしょうか。若いうちから始めて、数年毎に居場所を変えています。女衒に転売されるわけです。経済的理由その他で当人も納得の上の話もあれば、騙されてあし抜けしたあげくに別の場所に売られた例もあります。経験者ってどれだけの経験積めば経験者なんでしょう。1-2回転売されただけで、経験者、プロなんだからあたりまえ、同情のひつようなしということでしょうか。やることにどれだけの違いがあるのでしょう。
少し論点がずれますが、娼婦を抱く兵士たちも、姉があちこち売られた金でもって大きくなり、また自身も兵隊になって弟・妹を養う庶民の一人だったと思いませんか。そんな下からの視点にたった人権意識はだめでしょうかねぇ。
えてして、女性解放運動の善男善女に、本人の主張と裏腹の潔癖な差別意識がこのように見られます。
彼らの主張がまともと思われるのなら、コピーして、行きつけの水商売の姐さんたちにみせてみてください。私は恐くてできませんがね。出入り禁止にされても当方は責任をもちませんよ。


人はどのようにしてうそをつくか
at 2004 05/24 14:19 編集

DAYSJAPAN3号を買う
伊藤孝司氏の記事は「従軍慰安婦」という言葉を避けてはいるが、
内容は従軍慰安婦問題を追求する人の共通認識と同じである

頭のいい人がうそをつく時によく使われる手法が用いられている
全体像を示さず、個々の事象のみを書くことで
必要な部分を強調し、不必要な部分は無視する
流行の言葉を取り入れる

今回について云えば、
”アジア諸国の女性たちを慰安婦にした
その中心は朝鮮人だった
すべてが本人の意志に反した連行、つまり拉致であった”

この”アジア諸国”という言葉がミソで、
日本軍の周囲にいた慰安婦すべてを云えば、日本人慰安婦のことを書かざるを得ない
そうすると必要な強調ができず、論点がぼけてしまう
慰安婦のほとんどは女衒により集められる。当時大日本帝国であった現在の日本と韓国、北朝鮮台湾が中心になるのは、民族問題ではなく経済圏の問題だと思うが、それでは今回の記事にあわない
(日本以外の)アジア諸国というくくりかたをすることで日本人を取り除くと、残るのは朝鮮人中心になる
今まで、日本人は扱いがいいから別だとか、日本人はプロだから別だなどと差別意識をむきだしにして同胞をおとしめる文章をみてきたが、伊藤氏は実にスマートにこの作業を行っている
また、強制連行という言葉を避けるため、拉致という流行語を取り入れる
拉致の一般的なイメージとずれる部分をごまかすのが、その前の言葉である。拉致を定義しなおすことで、言葉の意味を都合のいい形に直そうというのだ
弟妹の子守が済んだ娘は、女衒や置屋の養女になる。場合によっては置屋から小学校に通う。
10代女性が自分の意志だけで苦界にゆくわけはないから、実親や養い親が売るのだが、先の定義からするとこれも拉致になる。
すべて拉致と言いきるカラクリはここにある。

新しい酒袋に古いワインを入れるとは聖書の言葉だが、
たった6頁で写真も使い日本の戦争犯罪を追求するところまでもってゆく手腕には、さすがプロのフォトジャーナリストだと感心する
きちんとした取材の積み重ねと明晰な頭脳、今回は批判になったが、1回では惜しい、連載になおしてほしいと実は思っている

なお、
記事は「殿下さま沸騰の日々」で知ったが、彼の見解がすばらしい、ご一読を。



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ヴァン・ヘルシング

映画「ヴァン・ヘルシング」をみる。
相変わらずハリウッドは女性を描くのが下手だ。
今回も面白そうな役どころを設定しながら、添え物で終わっている。
決して面白くないわけではなく、
ケイト・ベッキンセールという演技力のない女優にはちょうど合っていると思う。
ケイトは吸血鬼の花嫁に裏拳をくらって吹っ飛ばされたり、ワーウルフに圧し掛かられたり
痣をつけ血を流して、必死に動く姿が美しい。
ヒュー・ジャックマン、ウィル・ケンプ、男たちの華と演技が素晴らしい。
特にリチャード・ロクスバーグは心のない心、空虚な悲哀という難しい役を、艶やかに演じてみせた。

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めぢから

だしいれジャンキーが面白い。

自分が女であることに油断しきっている女は好きじゃない
ゴマメの歯軋りという言葉があるが
女であることのハンデに、自宅ではこめかみに万能膏を貼り付けるくらいの頭痛や肩こりを起こしながら歯を食いしばって女を生きる
そういう女の肩をさすってあげたい

古来、化粧ってのは戦場に行くためのもので、兜に香を焚き染めたり、白髪を染めて口紅を塗り首検分で恥をかかないようにしたりするものだ。
電車の中で化粧するってことは、そこは彼女にとって自分の部屋と同じ、一歩外に出れば戦場という意識がないのだろう。ガニ股も同じ。
職場や学校も戦場ではないのだろうか。
私も男としてだけでなく、同級生、職場の同僚としてもそういう”人”はヤだ。

マダム・クロード愛の法則」は仏の娼館の話で、これを元にした「風のフィユ」という漫画も読んだが、プロの娼婦も電車で化粧などしないと思う。もしかして化粧一式も手荷物にしなければならない街娼の話かも知れないが、それは私の知るところではない。

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東下という意識

先だって書いた日本人という意識のパロディとして

私は陸の孤島と呼ばれ、半島振興法により特別な予算で道をつくっている田舎出身ですが
名古屋の中心街栄にでるのも、東京は新宿にでるのも、特別な緊張を憶えたことはありません。
北海道時代も、体操服にジーンズで平気ですすきのを歩いていました。
それらの街には”上京”という意識をもったことがないからです。
普段は名古屋弁混じりの共通語を使っていますが、べつに紀州弁を”なまり”と恥ずかしく感じたこともないし
「花の都大東京」などと長渕剛の唄のような屈折したコンプレックスもない
自分が都会人だと思ったことはないですが
”東下り”という意識があるため、都会に出るとは思えないのです。
極論を云えば、故郷の醤油や蜜柑を下り物として神棚に飾った連中じゃないかと
ですから京都に上洛したときは緊張します。
ラフな格好をするにしても、隙がないようあちこち点検します。
この感覚は関西人以外にはわからないでしょうね、おそらく。

追記
大学時代、この手の話で東北・北海道・東海出身者をからかいました。
東京の人間は別に何とも思わないようでした。

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テロについて

過去の日記を引用します。

”ちょっときついことを書きます
at 2003 09/14 12:24 編集
和歌山県立図書館にて、和歌山県における空襲資料をみたときには、アメリカ国籍の人間全てに殺意を憶えました。
小学校の副読本で故郷和歌山市に対する空襲の話は読みました。いちおう第61連隊がいて(連隊の建物は空襲をまぬがれて、中学校に再利用されました)、メリヤス工場があり、地方都市ではあっても都市なので、この空襲は軍事的行為だと云えば云えます。
しかし、被害報告は、山中一軒家に焼夷弾、山道で見つけた主婦に機銃照射。それも一回や二回じゃない。やった個人より、させた、せざるを得ない作戦を司令したルーズベルト、トルーマンに対しては今でも恨んでいますよ。彼らの墓の半径1km以内に近づかないのが理性の限界です。
私が資料をみたのは戦後30年以上たっての話です。私がテロリストにならなかったのは、時間と空間のおかげであり、偶然だと思っています。
アメリカが民主主義の国じゃないとは思わないので、
プロである軍人同士が純粋に経済行為としての戦争をおこない、一般市民の被害を最小限に抑えるというルールが前時代のもので、
民主主義とは、一般市民が戦う当事者にいつでもなりうる主義であり、
民間人という定義と、ルールをつくりなおさなければならない
と今では理解しています。
極論をいえば私はテロを肯定しています。”

”黙祷
at 2004 05/28 16:54 編集
私は、砲撃・射撃と自爆テロや投石をはっきり分けて考えている
自爆テロは、自分が死ぬことを考えていればいいので、初めての人間でも比較的容易に実行できる。時限装置やスイッチを他人に押させることもある
射撃・砲撃特に射撃は、相手をみて、殺すという明確な意志を持ってトリガーを引く
これは、初めての人間には瞬時に決断できることではない
射的や動物から始めて、死体、処刑囚等を経て、何人か殺すことにより一流のスナイパーができあがる
大学の獣医科の授業では安楽死を行うことがあるが、初めての頃は2-3日精神状態が少しおかしくなる学生がほとんどである
何割かは、耐えられなくてここで進路を考え直す
ましてその先を経験したものがどうなるか
人ひとり殺すと初段というが、人を見据え、殺して平静でいられるのは、一般人とは別の人間だと思っていい”


今回の北オセチア共和国ベスランの学校占拠事件では爆弾を体につけた犯人と、銃を持った犯人の2種類がいた。前者は素人、後者は訓練を受けた人間と考えている。
小学生とその親という、最も弱い相手を狙ったのは、素人集団を率いて大規模テロを行う為にはそれしか思いつかなかったということだと思う。
単純に非難できないのは、それだけプーチンがチェチェンで作り上げた絶望が大きいと思うからだ。
しかし、人を呪わば穴2つ。5年後10年後に生き残った子供や親がチェチェンで何をするかが想像できる。
私はそれも非難しない。
テロ肯定は、結果を受け入れる覚悟をしろという意味を含めている。

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芦原ミュージック

舞台というものはほんのちょっとしたことでよくもなり、つまらなくもなる
特にストリップは浅草ロック座のような特別な目的を持った小屋以外はソロ(一人舞台)がほとんどなので、
舞姫の力量と気質、客の入りと客の態度で別の世界がみえる
小屋では舞姫は場を盛り上げて客を楽しませようとするし、
客はうまく舞姫をのせて、より面白くしようとする。あわよくばその日一番の笑顔やサービスを自分にもらう。
スマートに、ちょっとエッチに。手拍子、掛け声、タンバリン、テープ投げ。まわりの客をうまく導いて場を盛り上げる。
いい客になるのにも年季がいる。
今回の芦原ミュージックは、1巡目の終わりから3巡目の途中まで観たが
かきいれ時の8月に1ヶ月通し興行を依頼されるほどの実力者五木麗奈嬢はトリで安定した踊りをみせていたが
他の3人は2巡目と追っ掛けさんがうまく盛り上げてくれた3巡目では踊りのキレ、表情の豊かさが違っていた。

また地方には珍しく若いカップルが来ていたが、女性が毛嫌いせずにみてくれて拍手もしてくれたのでほっとした。
以前、札幌ニューカジノというスナックを改装したような小さな小屋で、中年女性2人を含むグループが来たときには、女性たちはハンカチを口にあて涙を流さんばかりに震えていた。
オヤジたちはそれが面白いのだろうが、舞姫たちには一番屈辱的な仕打ちであり、どんなに手拍子をして声をかけても場内はしらけっぱなしであった。

私はポラ撮影に協力。誰も撮らないと場がしらけるので、この演目は好きではないが、
数人の常連の協力により一般客もその気になってくれて今回は盛り上がってよかった。
私は舞姫との2ショット撮影を今回も選ぶ。これは遠慮がちな初心者に撮影させて場を盛り上げるためもある。

舞台に肘をのせる酔客2人もきたが、こちらは明るく舞姫に話しかける人で、かえって場が盛り上がった。
舞台は生き物という言葉は演劇だけじゃない。

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獣医師を目指す人に

臨床獣医師、いわゆる動物のお医者さんというのは生き物の生老病死を常に見続ける商売です。
極論を云えば殺生を生業とする商売、生きた動物の毒を飲ませ、切り刻む商売です。
動物が好きだというなら、やめた方がいいです。
医学界には”鬼手仏心”という言葉があります。
自分が鬼になれないようでは動物を助けることはできません。
仏教用語に”大慈大悲”とありますが、この気持ちがなくては只の殺戮者です。酒鬼薔薇聖斗に堕ちます。
動物が好きな自分を大切に思うなら、糞にまみれ、血塗られた手を持つ覚悟がないなら
別の職業をさがすことです。
動物愛護に携わる仕事はいくらでもあります。
繰り返しますが、動物が好きならやめなさい。
たまに勘違いしている飼主もいます。
とある愛好家に”同じ動物好き同士だから”と云われたことがありますが、はっきり違います。
とあるAHTさんが書いていましたが、AHT(アニマルヘルステクニシャン)若しくはVN(ベテリナリーナース)の仕事の一つに、獣医師と飼主の間に入って両方の気持ちをつなげることがるそうです。
医学用語に”同治と対治”という言葉があり、患者の気持ちになって考えることだけではなく、離れて考える必要もあるそうですが、獣医師も同じです。
繰り返しますが、動物が好きでいたいならやめなさい。

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